「平松洋子の台所」レビュー|こだわりの道具と道具へのこだわり

うつわについてのエッセイを書く人といえば、平松洋子さんが真っ先にあがると思います。むしろ他に著名なエッセイストが浮かびません。平松さんは初期はレシピの本を書いてましたが、その中でも「カジュアルに骨董を楽しむ暮らし」(2003)を書いていたほどです。

「平松洋子の台所」は2001年に発刊された本。1999年の「台所道具の楽しみ」に次ぐうつわが登場する著作です。
2001年はまだ作家ものが今ほど浸透していない頃。実際、この本の中に名前が書かれている作り手は漆の夏目有彦さんだけ。それでもこの本の中には作家もののうつわを使うのに通じる、むしろ元祖ともいうべき道具・クラフト・工芸を生活のものと見て使う暮らし方があります。そして軽薄体を彫琢したような文章は今読んでも時代差は感じません。

といっても20年も前でないと思うと、逆にいえば、今のような生活の中のうつわのあり方というのが当たり前になった(少なくとも作り手・売り手側としては)、21世紀になってから10年ほどに急激に広がったものなのでしょう。

本の中は3部に分かれています。

  • あさってのキムチ
  • 朝の人生修行
  • ひとりぼっちになりたいときは

ここに含まれるのは 片口、石皿、グラスのカップ、 塩壺などのうつわ、スッカラ、 鉄パイプの掛花入れ 、ベトナムのサーバー、タイの擂粉木、韓国の石鍋、茶筅、いくつもの土鍋、ル・クルーゼ、チーズのおろし金 、ブリキの米びつ、 鉄瓶、麻の布巾といった台所用品の以外にも、 灯火器など、平松さんの生活にあるいろいろな道具たち。

どの章でもそんな生活や旅先でのうつわ・台所道具について書かれているので、なぜこう分かれているのかは一読してもはっきり分からないほどですが、この本の読み手にインパクトを与えるエピソードの大半は「あさってのキムチ」に見つかります。それだけこの1部の文章には熱量があります。

この熱量の源は本人の思い入れの強さ。「今の自分の暮らしに無理なく合うものをゆっくり探していけばよい」とありますが、それだけの時間を持続する欲望、見つけた時の瞬間風速はすごいものがあります。筆者がそうありたいという「足るを知る」を吹き飛ばすほどの馬力です。「欲しがりが天分」と自分でいうだけあります。

そして目的を達成するために思考工夫を重ねる知的さも煌めいています。その知性は、「生命そのもの」の「圧倒的な美しさ」をすくい取る鑑識眼であり、坊主鍋や亀の子たわしや竹ざるを排して「今の自分の暮らしに無理なく合うものをゆっくり探していけばよい」と切り捨てる英断であり、一度使いこなせず手放した蒸せいろをどう再び迎え入れられるかを問い続ける思考力です。その知性に拒否反応を感じる人もいるでしょうが、さすがエッセイストというだけあって小気味よさのほうが味わえます。

各エピソードでうつわはもちろん主題として登場するのですが、うつわ自体は欲望の潮流の中で超然としています。そのまわりを駆け巡る筆者の熱さにギャップがあって面白く、「北京大捜索網」では中国料理・道具がオンパレードの中で筆者のほしいコールが連呼され、まさに北京の喧騒のようです。

把手の長いおたま、ズラリと鉄板に並んだ焼饅頭をはがすときの、巨大な細長い鉄ベラ。包子の生地をのばす、糸巻きみたいな麺棒。刀削麺のタネをしゃかしゃか削り取って飛ばす平べったい手刀・・・北京の人々の胃袋を満たし続けてきたその圧倒的な存在感に、わたしはすっかり魅せられていた。
あれもほしいこれもほしい、そっちも使ってみたい。だいいちそれらを使いこなせるようになれば、このとびきりおいしい北京の街角の味だって、きっと自分でつくりだせるのではないかーー。
・・・
・・・広い店内を見渡すと、ああやっぱり!秤売り場にあの清楚な姿が何十枚も重なっている。野獣のように雄叫びを上げたい気持ちをぐっと抑えてショーケースにかじりついた。
こ、こ、これ一枚くださいっ。

物売りの客寄せの声。新聞の到着を知らせる大きな声。それに重なり合う三輪車や自転車のベル。しかしそれは上海や香港のような喧噪の渦のなかには決して巻き込まれない。
おおらかな大陸の空気のなか、石壁に反響した北京語の響きはまるで音楽のように柔らかい。たとえば、天安門からまっすぐのびる前門大街を角に曲がった鮮魚口を歩けば、さまざまな食べものを売ったり買ったり包んだり、切ったり痛めたり食べたりする音がそこに加わる。

筆者がこれだけ道具を追い求めるのは、現地の市井の美味しいものを味わい、その秘訣が道具にあると聞いたから。その幕開けはこういう感じです。

食卓で再び絶句した。
どの料理の歯ごたえも味わいも、すべてまったく違う。簡素な炒めものなのに、ひとつひとつのおいしさがしゃきっと屹立している。
いやはや、なんという腕前なのだろう。
・・・
「料理はなんでもこれなの。使えば使うほど、鍋から味が出る気がするのです」
おいしいものをつくるひとからこぼれ出る言葉は、なんとおいしそうなのだろう。

そうやって道具によって味が変わることを伝えておいてからの、追走劇。倒錯的で笑えてしまうほどの突っ走りぶり。どこからその力がくるのでしょうか?たとえばフランスのサンカンタン、インドのデリーなど仕事と称して世界各国へ行く時の勢いもあると思いますが、それよりも筆者の知的好奇心と生活に対する思いが原動力だと思います。そこにどんな道具があるか、どんな食のあり方があるか、それらに自分たちの生活がどれだけ支えられているか。そこを筆者は常に見ていて、それをこちらに教えてくれます。

そんな欲望と創造の閃きの歓喜あふれる1部に続いて、「朝の人生修行」になると、ほぼ台所にある道具に焦点が絞られます。ようやく道具を中心に語られ、ある意味ほっとします。
食べ物はその周縁視野にあるくらいになります。

さらに読み進めると「ひとりぼっちになりたいときは」でも引き続き道具が主役ですが、どこか叙情的で、場面もほとんど台所すら離れます。トーンは落ち着いて「あさってのキムチ」とはかなり違います。
文章としても平松さんならではという感じが少なく、他の2部とはトーンが違いすぎるから集められたのかなと疑ってしまうくらいです。

「ひとりぼっちになりたいときは」はこの3部の終わり、つまりこの本の最後の章のタイトルです。その冒頭で中勘助の銀の匙を引用していますが、詩人を志していた中勘助の文章に通じるような、詩的な雰囲気をまとって終わる最後の文に、理想の生活を実現しようとしているのよ、と表明するような、単なる物書きでなくエッセイストとしての矜持を感じます。

そんな記憶の断片の数々も蝋燭の灯火のなかには封じ込められているから、わたしはそれを宝もののように取り出したりしまったりしながら、ひとりの時間といつまでも戯れて飽きない。

この「ひとりぼっち」の密やかさを漂わせて終わる本。写真も含めて290ページのボリュームをもっていて、登場するうつわ・道具たちも数あまた。好きなページを開いてそこから読むという読み方でも楽しめます。そしてその中には、こういう風にうつわを使えばいいのか、そんなことに特化した道具があるのか、という自分も試してみたいと思える発見があると思います。それをちょっとやってみると生活が生き生きとなることもよくあること。あるいは知的な視線で見つめられた生活の中にある大事なことに共感したり気付いたりもできれば、深みも増します。量も思いも懐の深さもありエッセイ、うつわに少しでも関心がある人にはおすすめです。